「お骨」と民法897条(祭祀に関する権利の承継)をめぐって

これからのお墓はどうなる!?

中原中也「骨」

ホラホラ、これが僕の骨
見ているのは僕?可笑しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処にやって来て
見ているのかしら?

中原中也「骨」一部抜粋

『骨』についての見方

日本人ほど「お骨」にこだわる民族はいないそうであります。世界を見ても、火葬はするけど全身のお骨(焼骨)をじっくりみて、遺族一人一人がそのお骨を箸で拾い上げ、大切に骨壺の詰めるなどの儀式はないそうで、他の国の人から見たらちょっと奇妙でホラーな感じに見えるのだそうです。

日本人の伝統的な考え方

ご遺体、遺骨について大きな災害で犠牲者が出るたびに、何年もかかって遺体、遺骨を探すことは日本人には常識となっています。ご遺体・お骨がなければ、その方の葬儀は終わらないとするのが多くの私たちの認識なのでしょう。

遺骨の多くはお墓に入れられ、一部は分骨し、仏壇やお寺に永代供養にされます。
「お骨には霊魂が宿っている」のが日本人の伝統的な考え方なのでしょう。もちろん最近は、散骨や樹木葬など少し「お骨」に対する認識も変化してきたようですが、それでも根強い慣習として存在しています。

「遺体・遺骨」をめぐる所有権の争い

この「遺体・遺骨」をめぐる所有権について争った有名な判例があります。(東京高裁昭和62年10月8日)
被相続人の配偶者(妻)が被相続人の兄弟と間で「遺体・遺骨」の所有権(その実体は祭祀のためにこれを排他的に支配、管理する権利)の継承について争いました。

事案は被相続人の先祖代々の家のお墓に被相続人の遺骨が入っており、それを別に配偶者(妻)が購入した仏壇・位牌や新たに建立した墓に入れることを配偶者が訴えたものです。つまり祭祀の継承者は誰で、祭祀財産の中に「遺骨・遺体」は含まれるか、その所有権は誰なのかを争ったものです。

そもそも、祭祀財産は相続財産ではなく、その財産(遺骨・遺体も祭祀財産に含まれる)を誰が継承するのかは大変むつかしい問題です。民法897条の祭祀承継者は相続人でなくてもよく、被相続人の指定がなければ慣習によると定めています。でも「慣習」とは何か、最近の社会状況や家族関係から考えてよくわからないと思います。

結局、判決はこの被相続人の先祖代々の墓から被相続人の遺骨を配偶者の墓に移す改葬を容認しました。

つまり、被相続人の祭祀を主宰するものは配偶者であるとの見解から「遺骨・遺体」の「所有権」は配偶者にあるとしました。
だから、先祖代々の墓から、被相続人のお骨を配偶者が新たに建立した墓にわざわざ改葬し、仏壇にあった位牌も配偶者の購入した仏壇に移したのでしょうか。事実は不明ですが、先祖代々のお墓に被相続人のお骨を分骨して残すこことはできなかったのでしょうか。この配偶者はすでに姻族関係終了届を提出していて、被相続人の家との縁は切れており、被相続人(亡夫)のまさに祭祀主宰者となったのです。

なにか殺伐とした事案ですが、ことほど左様に私たちは「遺骨」にこだわりを持っているのでしょう。

『骨』の今後、どうなる?

これからはどうでしょう。散骨や樹木葬が注目され、最近は「お骨」は一切いりませんという遺族がいると葬儀屋さんが言っていました。確かに仏壇のない家が圧倒的に増えていますし、そんな家に「お骨」だけあっても不自然かもしれません。

私たちは、遺言作成時に遺言者の方に遺言条項の一つとして、可能なら「祭祀主宰者」を決めてくださいとお話します。つまり民法897条に則ってその家族の系譜、祭具、墳墓など祖先の祭祀を主宰(引継ぐ)すべき人を指定してもらうのですが。ご本人はなんとも困惑した、少しさみしそうな表情を浮かべてお名前をお聞きすることが多いのです。私が死んだら、本当に祭祀を承継してくれるだろうか、お墓をちゃんと守ってくれるだろうか。やっぱり負担にはならないだろうか、など複雑な心境がよぎるのだと思います。
そういえば、わが町内の墓地では、最近いわゆる「墓じまい」が散見されます。曰く、「次の代にはこんなお墓の管理はたぶん、できないし、かわいそうだから」と。

民法897条が伝統的な家制度、家督制度の思想からできていることは否めません。家督制度が廃止され、核家族化になり、いまその核家族も少子化、非婚化、高齢化で変化しようとしています。
そんな中、伝統的な葬儀儀式、仏壇など祭具や墳墓なども大きくその様相が変わろうとしています。「祭祀を主宰し、承継する」ことがどうゆうものなのかその中身が問われ、変わってきているのではないでしょうか。

民法897条が伝統的な家制度、家督制度の思想からできていることは否めません。家督制度が廃止され、核家族化になり、いまその核家族も少子化、非婚化、高齢化で変化しようとしています。
そんな中、伝統的な葬儀儀式、仏壇など祭具や墳墓なども大きくその様相が変わろうとしています。「祭祀を主宰し、承継する」ことがどうゆうものなのかその中身が問われ、変わってきているのではないでしょうか。

民俗学者柳田国男は終戦の年、防空壕の中で「先祖の話」を上梓しています。私なりの少し乱暴な感想は、どんな世でも、連綿と続く私たちの先祖を思う気持ちを持たなければならない。亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんを思い敬う精神はいつの時代も必要だと言っているように思います。柳田は特に戦争で死んでいった多くの若者を国家として祭るよりも日本古来の伝統としての「家」に祭るべきだと言います。このことは決して、明治民法の家父長制の基づくイデオロギーとしての家族国家観のことを言っているのではないと思います。戦後の混乱とこれからの復興を支えるのは日本の伝統的にある「家」とその先祖のことを忘れない心が必要だと言っていると思います。

今日「祭祀を主宰し、承継する」とは「仏壇や墳墓」のようなもはや物理的なことではなく、「先祖」を思う気持ちを持ち続けることなのではないでしょうか。例えば「おじいちゃん、おばあちゃん、お父さん、お母さんを時々思い出し、その人の生涯について想いをはせること」なのではないでしょうか。どうでしょう。はたして、こんな思想は引き続き現代においても継承され得るのでしょうか。

民法897条の意義はこれからの社会状況に対応してどのように変遷していくのか、あるいは意味をなくしていくのか興味深いところです。