「ツヨシ伯父さん」のこと・・・・・戸籍の大切さ
私には伯父さんがいた。会ったことはない。
顔も知らない。遺影も遺品もない。伯父さんが生きていたことを明かすものは何も残っていない。
名前は「豪」と書いて「ツヨシ」と云う。唯一証言がある。死んだ一番下の叔母さんから聞いたことだ。
いわく、ツヨシさんはとても頭がよかった。それで当時なかなか行けなかった旧制中学に進学したが、途中で病気になり若くして死んでしまった。「本の世界に行きたい」と言って亡くなったそうだ。
それ以外「ツヨシ伯父さん」にまつわる話は何もない。私の亡祖母も亡父も「ツヨシ伯父さん」のことは何一つ話したことはなかった。だから「ツヨシ伯父さん」の情報はたったそれだけである。
ここに私の亡父の時に使った戸籍謄本がある。いわゆる明治31年戸籍がある。私の父は名前を「五雄」と云う。つまり五男であった。祖父は46歳で亡くなり、ツヨシ伯父さんは二男であるが、長男は二歳で亡くなっていたので、二男であるツヨシ伯父さんが16歳で家督を継いだ。しかしその2年後早逝した。ツヨシ伯父さんの後に家督を継いだ三男は二七歳で、四男、長女はやはり二歳、四歳で亡くなっている。だからうちの父は五男ながら唯一残された「跡取り」だったのだ。戸籍謄本をたどってゆくと我が家の過去のいろんなことが分かってくる。
死亡時に相続人を確定するために亡くなった方の出生から死亡までの連続した戸籍謄本が必要になる。亡くなった方の生涯をたどるためだから、その家のいわゆる家系図をそれで作ることはできないが、兄弟、祖父母、曾祖父母ぐらいまでは記載されていることが多い。
サービスで簡略の「家系図モドキ」を作ってあげることもあるが、意外と喜ばれる。
曾祖父母の名前を知らなかったといわれることも多い。また亡くなった方の出生の地、いわゆるルーツとなる場所を知らなかったり、勘違いしている方もいる。
遺言や日記やあるいは自分史などを残されている故人はそれなりの辿ってこられた歴史を知ることができる。だが多くの人は特に自分の軌跡を何も残すことなく亡くなられ、故人の生涯を感じ取れるものは多くないのではないか。
戸籍謄本は亡くなったかたすべての生涯の歴史が、そしてその方の前につながる祖先の人々の存在を感じ取られる唯一と言っていいものである。私たちはつながっているのである。過去から未来まで。そう感じさせてくれるのである。
戸籍を調べるということにはそんな深い意味があることに気が付いたのはこの商売をはじめたまだ最近のこと。
その戸籍調査を題材にした究極の小説に森鴎外著「渋江抽斎」がある。渋江抽斎は江戸期の津軽藩の医者で鴎外がなぜ彼の戸籍や家系をあんなに丹念にかつ詳細に情熱的に調査したのかはほとんど驚愕に値する。江戸期にはもちろん今の戸籍制度はなかった。渋江抽斎が医家の家柄だったとはいえ、高祖父以上までの系譜を克明に調べあげている。ほとんど独自の調査や親族・関係者への聞き取りなど地道な努力の積み重ねの結果である。しかも渋江抽斎没後の家族子孫も丁寧に記述している。内容はいかにも地味な連綿とした渋江家親族を淡々と綴っているだけなのに、それが面白い。「家系図のエンターテイメント」としての物語なのである。人の営みの単調ではあるが厳粛な繰返しの事実、人1人とその前後につながる親族の連続性の妙味はまさに戸籍調査の面白さにつながる。
「ツヨシ伯父さん」は結核で亡くなった。それは、なんとなく私の幼いころ聞かされていたように思う。結核菌は三男や祖父の命も奪い、父の片肺も奪っていた。そして私も、初めての人間ドックで肺にその痕跡があったことを告げられた。
「ツヨシ伯父さん」は明治四拾四年拾壱月生れで昭和四年六月に歿した。
わずか17歳と7か月の命だった。結核の病が徐々に進行し、彼はこの理不尽な死を前に、「本の世界に行きたい」と最後の言葉を残した。
「ツヨシ伯父さん」の生きた証しとなるものは何もない。おそらく結核菌を防ぐため身の回りのものはすべて処分したのかもしれない。だから戸籍謄本と仏壇の位牌のみが唯一彼が生きた証拠である。
戸籍制度や戸籍謄本があったおかげで、私は「ツヨシ伯父さん」の生涯を少しでも感じ取れたのではないか。
いつも多くのお客様の戸籍謄本を見る中で、「ビルマ△△に於いて戦死」や「朝鮮○○道にて出生」など様々な人々の波乱の記述に出会い、故人とその先祖の歴史にはどんな生涯があったのだろうか想像を巡らす。 戸籍は、単なる「相続人」を確定させるためだけの書類ではない。長く、連綿と続く、大切な人々の歴史の唯一の無二の書面なのである。